フィギュアスケートグランプリ(GP)SPで安藤美姫と高橋大輔がそれぞれ首位発進キム・ヨナは2位につけた

フィギュアスケートバンクーバー五輪代表選考会、グランプリ(GP)ファイナル第2日(東京・国立代々木競技場)は4日、女子ショートプログラム(SP)が行われ、GP2連勝でファイナルで初の表彰台を狙う安藤美姫(21)=トヨタ自動車=が66.20点をマークし首位に立った。世界女王の金妍児(19)=韓国、キム・ヨナ=は65.64点で2位につけた。



 アリョーナ・レオノワ(19)=ロシア=が61.60点で3位。ファイナル初出場で中国杯を制した鈴木明子(24)=邦和スポーツランド=は57.54点で5位だった。



 男子SPは、高橋大輔(23)=関大大学院=が89.95点をマークしトップに立った。今季GP2勝の織田信成(22)=関大=は87.65点で3位につけた。



 五輪代表(男女各3枠)の選考対象となるGPファイナルには、GPシリーズのポイント上位6選手が出場。同ファイナル3位以内に入った日本人最上位者はバンクーバー冬季五輪の代表に内定する。


安藤 美姫(あんどう みき、ラテン文字Miki Ando, 1987年12月18日[1] - )は、日本のフィギュアスケート選手女子シングル)。2007年世界選手権優勝。トリノオリンピック15位。2002年のジュニアグランプリファイナルにおいて、ISU公式大会で女子選手として史上初の4回転ジャンプを成功させた。



人物

愛知県名古屋市出身。名古屋市見付小学校名古屋市城山中学校中京大学附属中京高等学校卒業。これまでの所属クラブは名東FSCオリオンFSC。高校卒業後はトヨタ自動車に入社し、中京大学体育学部社会人学生として在籍している。



スケート教室入会の直後に父親を亡くしている。トリノオリンピックシーズンのショートプログラムでは父親に捧げる「戦場のメリークリスマス」を選曲[7]。愛用しているネックレスリングは父親の結婚指輪で、心の支えにしている。



大のスヌーピー好きとして知られる。歌手の絢香とは生年月日が同じで親交も深く、2007年世界選手権のエキシビションでは共演している。



フリースタイルモーグルスキー選手の伊藤みきとは、大学の同級生で親友である。出席番号で安藤が1番で伊藤が2番である為、同じグループでもある。
技術・演技

力強さと女性的な美しさを併せ持ち[12]、主要国際競技会で4回転ジャンプサルコウ)を成功させた唯一の女子選手でもある。2001年から練習を始め、「練習中に、遊びでやってみたらできちゃった」のだという[13]。3回転ジャンプはアクセルを除く5種類で跳ぶことができる。以前はフリップをアウトサイドエッジで踏み切っていたが、2007-2008シーズンから踏み切り矯正に成功している。練習では3回転アクセルにも取り組んでいる。



ISUジャッジングシステム施行後、3回転-3回転コンビネーションジャンプはルッツ-ループとフリップ-ループの2種類で成功している。3回転ルッツ-3回転ループは、ISU公認の競技会では他にイリーナ・スルツカヤしか成功していない。



経歴

幼少期

友人に誘われ、8歳でスケートを始める[3]。当時のコーチに勧められて門奈裕子のもとに移り、翌年には2回転アクセルを、その翌年には3回転サルコウと3回転トウループを習得[3]。1998年に全日本ノービス選手権Bクラスで3位となり、1999年の同大Aクラスで優勝した。2000-2001シーズンから新横浜佐藤信夫コーチに師事し、3回転ルッツ-3回転ループを跳ぶようになる。全日本ノービス選手権Aクラスを連覇し、2つの国際競技会で優勝した。



4回転サルコウ成功

2001-2002シーズン、全日本ジュニア選手権優勝、ISUジュニアグランプリ (JGP)もJGPファイナルを含む3戦全てで優勝し、華々しいジュニアデビューを飾る。シニアの全日本選手権でも3位に入った。2002-2003シーズンのJGPファイナルでは、フリースケーティング女子シングル史上初の4回転サルコウに成功。



2003-2004シーズンはJGPファイナルで2季ぶりに優勝。全日本ジュニア選手権では4回転サルコウを成功させ、荒川静香以来史上2人目となる3連覇を達成した。全日本選手権でも4回転サルコウを成功させ、村主章枝荒川静香らを抑えて初優勝。世界ジュニア選手権2002年大会から毎年1つずつ順位を上げ、2004年大会でついに優勝を果たした。世界選手権でも4位と健闘した。



トリノオリンピック

2004-2005シーズンから参戦したグランプリシリーズ (GPシリーズ) では1季目にしてGPファイナルに進出し、全日本選手権では2連覇。冬季国体では、安藤を見るために競技会場の収容能力をはるかに超える観客が詰め掛け、入場制限が掛けられた。2005年世界選手権は6位。



2005年5月からアメリカに練習拠点を移し、キャロル・ヘイス・ジェンキンスの指導を受ける。2005-2006シーズンの全日本選手権では6位に終わったものの、トリノオリンピックの代表に選出された。トリノでは、前年末に骨折した右足小指が完治しないまま競技に臨み[19]、ショートプログラム (SP) 8位と出遅れる。フリーでは4回転サルコウを回転不足で転倒するなどミスが続き、総合15位に終わった。



世界選手権優勝、そして苦悩

トリノオリンピック後からニコライ・モロゾフにコーチを変えた。モロゾフの指導により食事のメニューも細かくして体を絞り、大人の女性の魅力を出すための表現力を磨いた[21]。3月には門奈裕子のもとで基礎からジャンプを作り直した。スケートアメリカでは、SP、フリーともに3回転ルッツ-3回転ループを決め、GPシリーズ初優勝。3季連続で進出したGPファイナルでは、フリー当日に腹痛をおこし、満足な演技ができないまま5位に終わった。地元名古屋で開催された全日本選手権では、演技中に右肩を脱臼しながら最後まで滑りきり2位となった。しかし故障のため日本学生氷上競技選手権大会と、ユニバーシアードは欠場することになった。世界選手権ではSP、フリーいずれもパーソナルベストを更新する会心の演技で金メダルを獲得。日本人歴代4人目の世界女王となった。



2007-2008シーズン、GPシリーズでは、フリップのエッジ矯正の影響でルッツも安定していなかったため3回転-3回転は回避した[要出典]。NHK杯はフリーで3度転倒して4位に沈み、GPファイナル進出を逃した。全日本選手権では3回転-3回転を跳び、国内選手権ながら総合200点を越える会心の演技で2位となった。四大陸選手権で2年ぶりに4回転サルコウに挑んだが、回りきれずに2回転になった。世界選手権ではSPを前季に使用した『シェヘラザード』に戻して臨んだが8位と出遅れる。フリーは当日の公式練習中に左ふくらはぎを痛め、強行出場したが演技途中で棄権した。この後、怪我や調子の波が大きい自分はリンクに立ち続ける資格がないのではないかと悩み、周囲には「辞めたほうがいいと思う」と漏らしていた。しかし、モロゾフの慰留や、関係者と話をしていくうちにスケートに向かう気持ちを取り戻し、バンクーバーオリンピックを目標に競技を続けることを決めた。



復調

2008-2009シーズンはすべての試合で4回転に挑む意向を示していたが[25]、スケートアメリカモロゾフクリーンに滑ることを優先しようという指示で中国杯では練習不足のため、それぞれ回避した[26]。NHK杯終了後、フリープログラム中野友加里と同じだった『ジゼル』から『交響曲第3番』に変更[27]。2季ぶりに進出したGPファイナルのフリーで4回転サルコウに挑戦し、回転不足と判定されたものの片足で着氷した[27]。順位は最下位だったものの、自分自身で納得のいく演技ができたと語っている[20]。全日本選手権ではフリー前の6分間練習で村主章枝衝突する事故があったものの3位に入った。2009年世界選手権では3位に入り、2年ぶりにメダルを獲得した。



2009-2010シーズン、ロステレコム杯NHK杯とグランプリシリーズを連続優勝。