「フォーリーブス」のメンバー、青山孝史(あおやま・たかし、本名城下孝行=しろした・たかゆき)さんが28日午前7時、肝臓がんのため東京都内の病院で死去


最後のステージ1/10日
4人組の人気グループ「フォーリーブス」のメンバー、青山孝史(あおやま・たかし、本名城下孝行=しろした・たかゆき)さんが28日午前7時、肝臓がんのため東京都内の病院で死去した。57歳。佐賀県出身。葬儀・告別式は2月4日午前11時から東京都渋谷区西原2−42−1、代々幡斎場で。喪主は妻めぐみさん。

 青山孝の芸名で江木俊夫(56)、北公次(60)、おりも政夫(55)とともに、フォーリーブスとして「オリビアの調べ」で1968年、レコードデビュー。「ター坊」の愛称で親しまれた。

 歌って踊れるグループとしてファンを熱狂させ、「ブルドッグ」「踊り子」「地球はひとつ」などの曲がヒットし、70年から7年連続で紅白歌合戦に出場。78年に解散したが、2002年に再結成。現在の芸名を名乗っていた。

 昨年10月にほかのメンバーに病気を告白。治療を受けながらツアーを行っていた。




◆メンバー悲しみの声
 青山さんの急逝を受け、28日午後4時から東京・赤坂のTBSで、フォーリーブス江木俊夫、、北公次、おりも政夫の3人が記者会見し、つらい心情を明かした。

 病床の青山さんに代わって、今月16日に青山さんの肝臓がんをファンに公表した江木は「40年の友人で兄弟以上の関係だった。悲しいより、まさかという気持ち。悔しい。眠っている青山にオイッと声をかけたけど、口を利いてくれなかった」と無念の思いを口にした。

 メンバーによると、青山さんは28日午前2時に容体が悪化。午前4時には吐血があり、午前7時、めぐみ夫人(42)と長女(10)にみとられ、静かに息を引き取った。

 おりもは28日早朝に訃報(ふほう)を受けて、仕事先の倉敷から帰京し、青山さんの自宅で変わり果てた畏友(いゆう)と対面した。「とってもきれいな顔でした。僕たちは4人で一つ、悔しくてしょうがない」と涙を浮かべ、北も「安らかな顔で頭をさすった。帰ってくるような感じでした」と声を震わせた。

 昨年10月にがんと診断された青山さんは、入退院を繰り返しながら、フォーリーブスのコンサートに参加し続けた。今月10日の東京・西新井文化センターでの公演が最後のステージになった。「楽屋では、横になっていたけど、ステージに出ると、全然ビシッと歌って。プロだった」と江木。おりもも「葛藤(かっとう)もあったと思うが、僕たちに弱音を吐いたこともなかった。死んでも歌いたいと言っていたけど、本当に歌が好きで命をかけていた」と最後までプロ歌手に徹した友をたたえた。

 19日には自宅に一時帰宅し、長女の10歳の誕生日を家族水入らずで過ごした。長女には「またハワイに行こう」などと話し、ステージ復帰とともに、退院後の生活を楽しみにしていたという。

 02年のグループの再結成は青山さんがメンバーに働き掛けて実現した。昨年1月からは全国ツアーを展開し、今年3月29日に東京厚生年金会館でファイナル公演が予定されている。同公演も含め残す公演は3カ所。今後の公演について、江木らは「3月29日の公演に立たせてやりたかった。青山からしっかりしろ、と言われないように、彼の分まで残ったコンサートは最後の公演までやっていきます。青山には天国から歌ってくれ、と言いたい」とおえつまじりに話した。コンサート終了後の活動については、今後話し合うことになるという。

◆悼む
 2007年12月、名古屋の御園座で公演したフォーリーブスを取材した。控室に招かれ、メンバーと一緒にひつまぶしを食べることになった。取材というより、友だち感覚で接してもらった。青山さんは、宝物があると言った。それはファンからの手紙だった。

 「子どもさんから手紙をもらったんです。ぼくらが活動を再開してから両親の仲がよくなったって。あと、闘病中の方から元気が出たって。うれしいですよね。がんばらなくちゃ」

 翌日、紙面を読んだ青山さんからお礼の電話があった。タレントから電話をもらうのは初めてで、こちらが恐縮してしまった。だが昨年の公演では、知人を通じて「すいませんが今回はお会いできない」というお断りの連絡があった。病気の話は聞いていた。弱っている姿は見せたくなかったのだろう。

 最後となった今月10日のコンサートを見に行った知人の話では、腹水がたまっているのが客席からも分かるほどだったという。自分の命を削るようにしてまでファンに元気を与えた青山さん。その思いはみんな忘れません。中日スポーツより

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フォーリーブスは、ジャニーズ事務所に所属した男性アイドルグループである。

1967年4月1日結成、1968年9月5日レコードデビュー、1978年8月31日解散。2002年再結成。 グループの愛称は「リーブ」、「リーブス」、「FL」。

解散から24年を経た2002年に再結成を果たした。
メンバー
北公次 (きた こうじ、1949年1月20日 - 、愛称「コーちゃん」)
青山孝 (現:青山孝史)(あおやま たかし、1951年8月10日 - 2009年1月28日 、愛称「ター坊」)
江木俊夫 (えぎ としお、1952年6月4日 - 、愛称「トシ坊」、「ポコちゃん」)
おりも政夫 (おりも まさお、1953年7月4日 - 、愛称「マー坊」、B型)

脱退メンバー
永田英二 (ながた えいじ。 愛称「英ちゃん」、「英坊」。 後にソロデビュー。 「スーパーエイジス」も結成。)

概要
グループの成り立ち
1967年4月1日、ジャニーズの『太陽のあいつ』という曲のバックダンサーとしてグループを結成。メンバーは、元々ジャニーズの付き人だった北公次、3歳から子役で活躍していた江木俊夫劇団若草出身でファッションモデルをしていたおりも政夫、同じく劇団若草出身の永田英二の4名。この4名で、同年6月、大阪フェスティバルホールにてジャニーズが主演のミュージカル『いつかどこかで〜フォーリーブス物語』に出演。しかしまだグループ名は無く、「ジャニーズJr.」としての出演だった。
同年8月、「第31回・日劇エスタンカーニバル」に初出演。この時、初めてグループ名が正式に『フォーリーブス』に決まる。 尚、「フォーリーブス=Four Leaves(4枚の葉←leavesはleafの複数形)」の意味が定説だが、本来の名前の由来は、ジャニー喜多川氏が脚本を書いたジャニーズ主演のミュージカル『いつかどこかで〜フォーリーブス物語』内のグループ名からで、「4つに“別れる、去る、出発する”」という意味の自動詞の「“leave”」である。
同年10月、結成メンバーの永田英二は当時小学生だった為、スクールメイツ出身の青山孝と交替となる。同じく同年10月より日本テレビ『プラチナゴールデンショー』にレギュラー出演するようになる。
1968年9月5日、CBSソニーの国内契約第一号アーティストとして、両A面シングル『オリビアの調べ c/w 壁のむこうに』にてレコードデビュー。
1970年にはプロマイドの売上げが男性歌手部門の1位になり、衰退期にあったグループサウンズザ・タイガースらに代わり、新御三家が台頭するまでの間、トップアイドルとなった。大ヒット曲はなかった(ヒットチャート最高10位)が、冒頭の江木の名ゼリフで知られる『地球はひとつ』や、『あしたが生まれる』『夏の誘惑』などのシングルがコンスタントにヒットを重ね、1970年から7年連続でNHK紅白歌合戦に出場した。先輩格のジャニーズと同様に、ミュージカルにも熱心に取り組み、その姿勢は現在のジャニーズに受け継がれている。
ジャニー喜多川メリー喜多川姉弟は「タイガーズやテンプターズ等、他の人気グループと違い、フォーリーブスはグループ内にスター的存在のメンバーを作らない」「言うなればメンバー全員がスター」という確固たるポリシーを結成当時から一貫して持ち続けていた。二人は雑誌などでも度々その主旨の発言をしていた。また、1960年代前半にジャニーズの付き人をしていた北公次をどうしてもデビューさせたいが為に、各所から人材を取捨選択して作ったグループだと後にジャニー喜多川が発言している。
グループ内での位置付けは、運動能力に優れた北公次はバック転などの華麗なアクロバットといったアクション面を担当してステージを彩った。またステージ上でバック転を披露した初のアイドルでもある。当時全盛を誇る渡辺プロダクションの次世代のスター育成機関であった東京音楽学院特待生でスクールメイツのメンバーでもあったほど高い歌唱力を持つ青山孝は、歌唱面と音楽面においてのリーダー的存在。フォーリーブスの楽曲の音楽性の高さは青山に負うところが大きい。日本大学芸術学部の学生でもあった青山は、芸能活動との兼業もありソロ活動は少なかったがグループ内では北と人気を二分した。70年代後半のコンサートでは他のメンバー達からの注文に応じてアレンジやコーラスなどの譜面の書き換えも任されていた。名子役として芸歴の長い江木俊夫と同じく子役出身で最年少のおりも政夫は、前述の二人とは対照的にグループのMC役としてトークや司会進行を担当。バラエティやコントなどでは気味の悪い怪物や道化に徹した役回りや扮装、大胆なリアクションも辞さない軽妙なコメディリリーフ部分を担っていた。江木俊夫は子役の頃から周囲の百戦錬磨のスタッフすら騙されるほどの自然な演技力を身につけていたが、ジャニーズ社長の意向もありグループ内では三枚目キャラクターを担当していた。おりも政夫はのんびりかつ飄々としたキャラクターと司会進行が持ち味。歌唱、アクロバット、演技などそれぞれが1つの長所に特化した他のメンバーと違い、どれも手堅くこなす器用な面も持つ。ピークが過ぎた1974年頃から各自の個性を生かした単独での活動も徐々に増えていった。
1973年の8月にフォーリーブスへのプレゼント代や追っかけ費用を稼ぐために売春していたという女子中学生グループが書類送検されて批判を浴びた。
長く賞には恵まれなかったが、10周年記念曲として1976年にリリースした『踊り子』で、東京音楽祭ゴールデン・カナリー賞の受賞を皮切りに日本歌謡大賞特別賞、日本テレビ音楽祭特別賞等を受賞した。しかし当時人気は既に下降し始めていて、ヒットチャートの最高は41位であった。なお、同曲のレコードでは北が歌っていたソロパートが、歌番組では青山の歌唱へ変更されている事が多かった。その年のNHK紅白歌合戦出場曲にもなり、ソロパートは北と青山の二名によるツインボーカルによる歌唱で披露されたが、画面に映っているのは北だけであった。翌1977年に起死回生を賭けてリリースした『ブルドッグ』は、奇抜な歌詞や振り付けが話題を呼ぶも最高40位とヒットには至らず、7年連続出場したNHK紅白歌合戦にも落選した。しかし、この曲はその後も後輩のジャニーズアイドル達によってライブやテレビで歌い継がれているほか、1997年には富士フイルム写ルンです」のCMソングに起用され、2006年にはタレントの城咲仁によってカバーもされた。
1970年代中期頃から後進や後輩のアイドルやグループへと人気が移行していく。事務所後輩の郷ひろみが移籍したあたりから、徐々に世間の関心がニューミュージック勢に比重が移っていくのと比例して、人気やレコードセールス及び所属するジャニーズ事務所の状況も低迷する。新御三家を除いた男性アイドル冬の時代に突入し、個人での活動の比重も高くなり、それぞれの芸能活動における方向性の違いも顕著になっていった。メンバーの平均年齢も20代後半となり、1977年には青山が結婚をするなど、アイドルとしての活動に限界を迎え、1978年の7月21日に最後のシングル『THE END-思いがけず出会ったら-/夢のかけら』をリリース、1ヵ月にわたる全国ラストツアーを行い、同年8月31日、大雨の降る中、新宿の東京厚生年金会館のステージにて解散した。 この日は何と、副社長のメリー喜多川が初めてステージに上がり、「これから頑張っていこうね」と言いながらメンバーたちと抱き合って泣いた。 尚、この解散コンサートの模様はテレビ番組としても放送され、しかも再放送までされている。解散にあたり、メンバー全員が「二度とフォーリーブスの名で再結成しない」などといった内容の念書を書かされ事務所に提出した。
1977年に、青山孝が同事務所の女性タレント・嶋田じゅんと結婚した際には、披露宴の模様がテレビ番組まで組まれて放送された。
約12年の活動でシングル38枚を発表。そのシングル曲累計売上は約266万6千枚に及んだ。
解散後から再結成までの期間までは、解散直後にベストアルバムが販売されたものの、翌1979年の覚せい剤取締法違反による北公次の逮捕以後は、1992年8月にNHK-BS2で放送された『時代を駆ける栄光のアイドル達』を除き、当時の人気に反してメディアで振り返られる機会はほぼ皆無と言っても過言ではなかった。1981年に『さよなら日劇エスタンカーニバル』が開催された際、この企画の為にフォーリーブスを一時的に再結成させたいという話がジャニーズ事務所に持ちかけられたが即座に断られた事もあった。編集盤も解散直後に発売された物を除くと1997年9月21日発売の『アーリーシリーズ・ベスト・オブ・フォーリーブス』が初のベストアルバムであり、アルバムの再発もCDでは1994年5月21日発売の『若者』のみであった。
本家であるフォーリーブスによる過去の楽曲や映像の再発や放送の機会がほとんど無い一方、レコードレビュー前の少年隊が夜のヒットスタジオレッツゴーヤングなどのテレビ番組やコンサートでフォーリーブスの代表曲であった『ブルドッグ』『踊り子』『急げ若者』『地球はひとつ』をレパートリーとして発表。それを皮切りにジャニーズ事務所に所属している後輩のグループやジャニーズジュニアらによってそれらの楽曲がテレビやライブで歌われる姿を現在に至るまでたびたび見かけられるようになった。

ザ・ベリー・ベスト・オブ・フォーリーブス

ザ・ベリー・ベスト・オブ・フォーリーブス

その後
1990年頃、青山とおりもの2人で、静岡県浜松市肴町に在る同じビル内に、『ステージバー・グリッター』(3F)というショーパブと、『タレント・ミュージック・スクール』(4F)という音楽学校の2つを開いた。
2006年8月12日、NHK『第38回思い出のメロディー』に出演し『ブルドッグ』と『地球はひとつ』を熱唱した。北公次はバック転も披露した。久々のテレビ出演であり、特にNHKには1978年の解散時に出演した『ビッグショー』以来28年ぶりである。続く2007年1月に徹子の部屋にも出演したが、以後の全員揃っての在京局のテレビ番組への出演は、2008年2月12日放送の2時っチャオ!と2008年11月11日放送の歌謡コンサートのみである。また、2007年3月2日、Dのゲキジョー江木俊夫がVTR出演した際、フォーリーブスのコンサートや舞台裏の模様も放送された。

主な出演作品

バラエティ番組
プラチナゴールデンショー (日本テレビ)レギュラー
ロッテ 歌のアルバム (TBS)
スター千一夜(フジテレビ)
夜のヒットスタジオ(フジテレビ)
NTV紅白歌のベストテン日本テレビ
カリキュラマシーン日本テレビ)レギュラー
とことんやれ大奮戦! (日本テレビ)レギュラー
東芝ファミリーホール特ダネ登場!?(日本テレビ)準レギュラー
歌え!ヤンヤン!! (東京12チャンネル)レギュラー
レッツゴーヤングNHK)レギュラー
カックラキン大放送!!日本テレビ
1976年4月23日・「待て!二郎さん」 坂上二郎との共演
1976年10月8日・「名犬らしい」 坂上二郎との共演
1977年2月4日・「連休さん」 山口百恵との共演
1977年5月20日・「もろい夫婦」 和田アキ子との共演
1977年7月15日・「求人二十面相」 森昌子との共演
チビらサンデー (1976年7月 - 、テレビ朝日
徹子の部屋 (2007年1月23日、テレビ朝日

テレビドラマ
おれは男だ! (1971年2月21日 - 28日、日本テレビ)第1話と2話にゲスト出演
青春をつっ走れ! (1972年4月 - 7月、フジテレビ)ゲスト出演
ぼくは叔父さん (1973年10月 - 1974年3月、日本テレビ
ボクは女学生 (1973年10月5日 - 12月、フジテレビ)
小さなスーパーマン ガンバロン (1977年4月3日、日本テレビ)第1話にゲスト出演

映画
初笑いびっくり武士道 (1972年1月21日公開、松竹・大船撮影所)
※ 2003年6月に『びっくり武士道』のタイトルでDVD化された。
急げ!若者 TOMORROW NEVER WAITS (1974年7月20日公開、東宝/ジャック・プロ)
共演した郷ひろみや9名のジャニーズ・ジュニアと共に舞台挨拶も行った。

ラジオ
おりも政夫
ロッテ 集まれ!ヤンヤン 熱気でムンムン! (1975年8月 - 、ニッポン放送、公開録音番組)

ミュージカル
いつかどこかで〜フォーリーブス物語 (1967年6月、大阪フェスティバルホール) ジャニーズJr.としての出演
フォーリーブスヤングサプライズ「少年たち−小さな抵抗−」 (1969年12月、日生劇場
オー・マイ・ママ (1969年12月)
少年たちシリーズ〜ミュージカル'70 「少年たち−完結篇−」 (1970年5月30日&6月1日、日生劇場
少年たちシリーズ〜フォーリーブス・ミュージカル「素足で駆けるとき」 (1970年、企画・構成・演出:フォーリーブス、芸術祭参加作品ミュージカル)
フォーリーブス・ショー「希望の翼」 (1970年12月)
少年たちシリーズ〜フォーリーブス・ミュージカル「太陽からの少年」 (1971年4月)
少年たちシリーズ〜フォーリーブス・ミュージカル「明日なき友情」 (1971年8月)
少年たちシリーズ〜フォーリーブス・ライブ・ミュージカル「生きていくのは僕たちだ!」 (1972年1月、芸術祭参加作品ミュージカル、帝国劇場)
ミュージカル・コメディー「おかしな童話」 (1972年3月)
ミュージカル「僕がうたうとき!」 (1972年8月)
星に帰った若者 (1973年1月)
見上げてごらん夜の星を (1973年7 - 8月、フォーリーブス結成7周年記念ミュージカル)
ミュージカル「発射前17時間」 (1974年8月)
オリジナルミュージカルプレイ 「友情」 (1975年、「フォーリーブス リサイタル'75」にて)
ライブ・ミュージカル「少年たちパートII〜青春の光と影」 (1976年3月、「フォーリーブス結成10周年記念リサイタルVOL.1」にて)
ウェルカム・トウ・ザ・ショー フォーリーブス物語 (1976年8月、「フォーリーブス結成10周年記念リサイタルVOL.2」にて)

日本劇場でのステージ
第31回ウエスタン・カーニバル (1967年8月26日 - 9月1日)
第32回ウエスタン・カーニバル (1968年1月15日- 22日)
第33回ウエスタン・カーニバル (1968年5月4日- 10日)
第34回ウエスタン・カーニバル (1968年8月26日- 9月2日)
第35回ウエスタン・カーニバル (1969年1月14日- 21日)
第36回ウエスタン・カーニバル (1969年5月5日- 12日)
小川知子ショー (1969年5月20日 - 26日)
第37回ウエスタン・カーニバル (1969年8月25日- 9月1日)
第38回ウエスタン・カーニバル (1970年1月15日 - 22日)
第39回ウエスタン・カーニバル (1970年5月2日 - 8日)
第40回ウエスタン・カーニバル (1970年8月25日 - 9月1日)
第41回日劇新春ウエスタン・カーニバル (1971年1月15日 - 22日)
第42回日劇エスタン・カーニバル〜みんなで踊ろう! (1971年4月23日 - 29日)
第43回ウエスタン・カーニバル (1971年8月27日 - 9月2日)
第44回ウエスタン・カーニバル (1972年1月15日 - 22日)
第45回ウエスタン・カーニバル 「フォーリーブスショー」 (1973年5月4日、小井戸秀宅と共に北公次が振付を担当)

CM
ソニー「カセットコーダー」(1969年)
コカ・コーラ
ロッテ

書籍
フォーリーブスの伝説 (1976年、たいりゅう社)
フォーリーブス 青春共和国 (ペップ出版
抱きしめたい〜I wanna hold your heart (2003年1月31日、実業之日本社
出版記念として、銀座・福家書店にて握手会が開催された。
みあげてごらん〜いつも愛〜 (2004年3月25日、スタジオワープ)
4人が作と文を担当した絵本。

写真集
フォーリーブス イン U.S.A. (1972年12月、講談社




関連項目
ジャニーズ事務所
ハイソサエティー
スーパーエイジス

外部リンク
フォーリーブス オフィシャルウェブサイト
フォーリーブス オフィシャルブログ
所属事務所「(株)エフエンタープライズ
エフエンタープライズの旧サイト版でのプロフィール
エフエンタープライズの旧サイト版での2002年から2005年までのコメント
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フォーリーブス 1968-1978」の詳細
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